One More Belief

 本当の敵が 何者であるかを 覚えておこう

World Politics      Supremacy Strategy 4 運命の敵国 アメリカ

 

 

 

One Belief

 

 

 其れでは本論に入る前に、即ち現代日本の存立構造の歴史的必然性を確証し、世界覇権構造の本質を抽出し、次代の日本の覇権戦略を論考する途に就く前に、日本にウエスターン・インパクトの時代の幕開けをもたらし、そして今から70余年前、日本国と日本人が雌雄を決する戦争を挑んだ、そしてその敗戦により、日本がその従属国・保護国となった、運命の敵国であるアメリカについて、日本との連関において、その歴史構造論の序章を始めたい。そしてアメリカという稀にみる国家の本質を炙り出す端緒に就きたい。これは本論の主要な目的の一つである。

 

 先ず初めに、ウエスターン・インパクトを日本にもたらす契機となったペリー提督の黒船来航(AD1853)からアメリカと日本の歴史構造を紐解いていこう。それには当時イギリスと並ぶ二大世界覇権国であるロシアの動向から見る必要がある。江戸後期のロシアは、18世紀末葉からロシア艦船がオホーツク海を南下し、通商開始を要求し、根室・長崎に来航していたが、幕府の対応に業を煮やし、AD1806から樺太と択捉島の幕府拠点を襲撃するという軍事挑発を行なっていた。対し幕府は、南千島を測量していたロシア軍を択捉島で捕縛するなど対抗し、急きょ日露の緊張が高まっていた。この緊張は和解のもと一旦ロシアは退却するが、19世紀初頭から既に北方領土は厳しい攻防の地であった。ロシアは17世紀初頭からシベリヤに侵攻し、17世紀末葉にはオホーツク海に達し、清朝と領土を接していたが、18世紀後半に東欧支配を完了させ、19世紀初頭のナポレオン戦争の勝利後には、中東のオスマン朝と極東の清朝と日本に虎視眈々と狙いを定めていた。ロシアはオスマン朝への侵攻にイギリスとの紛争を招くが、清朝へはイギリスの動きを見定め、挑発は控えていた。しかし清朝が、イギリスとの阿片戦争(AD184042)に敗れ、更にイギリスとフランスとのアロー戦争(AD185660 2次阿片戦争)にも敗れ、弱体を曝け出した好機に、威嚇と恫喝だけで、アムール川以東の沿海州を領土割譲させるという離れ業を成し遂げた。(AD1860 北京条約)、そして遂に念願の不凍港・ウラジオストク(東方を支配する)の建設に取り掛かかる。この過程の19世紀初頭、正に植民地主義の野望を滾らせ、日本に来航していたのである。幕府は、17世紀の世界覇権国であるオランダから、長崎・出島を通し、西洋覇権国のアジア侵攻の全体情報を適時把握しており、イギリス、フランスの動向と同じく、アメリカ艦隊の日本来訪の計画も予め把握していた。それでは何故に、寝首に刃を突き付けたのは、当時の世界覇権国であるイギリスではなくアメリカであったのか、また当時の第2の世界覇権国であるロシアでなくアメリカであったのか。答えはシンプルである。AD1853のその時、イギリスとロシアは世界覇権を賭け、黒海で激突の最中にあったからだ。イギリスは、ロシアのバルカン半島と地中海への侵出を阻止するため、フランスと共にオスマン帝国を支援し、クリミヤ戦争(AD185356)を戦っていた。イギリスはロシアの黒海艦隊を最新鋭の蒸気艦隊で全滅させ、ロシアの南進政策を挫けさせる。このクリミヤ戦争は、19世紀初頭のナポレオン戦争後の初の大規模な国際戦争であったが、ロシアにはこの痛い敗北が、その後の産業革命と社会改革に傾注していく大きな転換点となった。阿片戦争で清朝を撃破していたイギリスは、このクリミヤ戦争の前後も、中国攻略に傾注しており、日本を後回しにしていただけであり、弟分のアメリカの動きを観察と決め込んでいた。ロシアも、19世紀初頭はロシアらしくない極めて稚拙な戦術で日本から退却したが、阿片戦争後の中国に虎視眈々と狙いを定め、日本を後回しにしていただけである。クリミヤ戦争の敗北後は、南進政策を東アジアに移し、更に中国に専念していく。

 

 然し幕府のアメリカへの開国後、ロシア、イギリス、フランスは大挙して日本に押し寄せて来た。その中にロシアは、急きょ対馬を一時占領するという愚挙に出たが、幕府と列強間の駆け引きの中、イギリス艦隊の脅しにより対馬から撤退するという無様も演じている。産業革命に遅れたロシアは蒸気艦船を保持しておらず、先のクリミヤ戦争でもイギリスに完敗している。対しアメリカは、クリミヤ戦争の最中、列強間の間隙を縫い、何の前触れ無く突如、首都・江戸を砲撃可能な江戸湾に、当時の最先端のアメリカ製蒸気戦艦の隊列で来訪するという並々ならぬ高等戦術であった。このペリーの4隻の艦隊は、蒸気船は2隻だけであり、尚も外輪式の蒸気帆船であり、勿論のこと黒いコ-ルタールを塗った木造艦船であった。これは、蒸気機関の安定度と石炭燃料の積載量から来る当時の造船技術の限界の産物であった。以後蒸気艦船は20世紀初頭のタイタニック号まで目覚ましい進歩を遂げる。然し当時の日本人は、外航船のスケールの大きさと未知の蒸気機関と射程距離の長い大砲にあれだけ驚いたのである。

 

 当時アメリカは、米墨戦争(AD184648)の勝利により、メキシコからニューメキシコとカリフォルニアを奪取した後、太平洋に達した国土の防衛のために太平洋艦隊の創設が急務であった。そのため、米墨戦争でメキシコ湾封鎖を指揮したペリー提督に蒸気帆船2隻を含む外航艦艇4隻を授け、米国の東海岸から喜望峰を回り、インド洋を渡り、既に展開していたアメリカ東インド艦隊に合流後、フィリッピンをかすめ、台湾と琉球に寄港し、太平洋横断後に太平洋艦隊となる前、正に世界一周の海路の途中に日本に到着した。このアメリカ艦隊の大遠征は太平洋艦隊の創設と同時に、日本との通商交渉が第一のミッションであったが、これはイギリスが抉じ開けた中国との通商に対するアメリカの橋頭堡とするためであった。この日本遠征計画には、イギリスの阿片戦争を成功例として、通商交渉には友好姿勢より武力による脅しが最も有効と判断し、最新鋭の蒸気帆船2隻含む艦艇4隻を東海岸から投入したもので、事実計画段階では琉球占領も協議されていた。まだ南北戦争前のアメリカであるが、将来の太平洋のシーパワー国家として、並々ならぬ野心によるものである。このアメリカの太平洋初外交は、予想以上の大成功をおさめ、正にイギリス、フランス、ロシアの間隙を貫いて、翌年の再来航では、日米和親条約の締結に至るという快挙を為したのである。北米を除き、帝国主義アメリカの植民地主義外交の初の成果であった。幕府は、阿片戦争以後の清朝の壊滅的後退についてはオランダから並々と情報を得ており、怖れをなして、230年間の禁をかなぐり捨て、鎖国体制に終止符を付けた。更に4年後には、アロー戦争(第2次阿片戦争 A D185660)の最中、イギリス・フランス軍が日本にも侵攻するというアメリカの脅しに屈し、朝廷の勅許の無いまま、日米修好通商条約を不平等条約の下、締結し開国に至っている。幕府は既に統治機能を逸していた。幕末の日本に颯爽とデビューしたアメリカという国について、当時の世界での地位と歴史を、日本と比較しながら整理しておこう。

 

 ペリー提督の来航時の幕末、日本とアメリカの人口は同じくほぼ3000万人であった。現在のヴァージニア州の植民地開拓(AD1607)から始まり、メイフラワー号に乗り組んだピューリタンの入植(AD1620)から、独立戦争(AD17731783)を経て、南北戦争(AD186065)に至る約250年間のアメリカ膨張の歴史を概略ながら整理しておこう。この期間は、日本の江戸時代、即ち江戸幕府の成立から崩壊(AD16031868)と全く符合する。日本の慶長期(AD15961615年)の推定人口は1500万人であったが、江戸265年間の中期までに既に3000万人に達していたが、幕末までの江戸後期には全く人口が増加しなかったことは特記事項である。この人口増加のない1世紀半は、技術開発と経済成長の途絶えた再生産社会であり、これは、鎖国体制と幕藩体制の封建制がもたらしたものである。18世紀から19世紀前半、16世紀と17世紀の様々な基盤形成の中から、西洋世界が一挙に飛躍した時期に、他のアジア諸国と同じように、日本は再生産社会に突入していた。明治維新後、日本だけが短期間の近代化を達成し、僅か70余年後の大戦突入時には、人口が2倍の以上の7000万人に達する事が出来た内在要因の論考は、別段に譲るとして、この1世紀半にわたる再生産社会の停滞がウエスターン・インパクトをもたらしたのである。

 

 この江戸後期の停滞の現実からアメリカを眺めてみよう。16世紀末葉、スペインの無敵艦隊を撃破したエリザベス1世の治世下から、イギリスは現在のヴァージニア州の植民地経営に乗り出したが、17世紀初頭に次のジェームズ1世の特許会社によって、漸く植民地経営(ジェームズタウン AD1607)に成功する。そしてメイフラワー号を歯切りに入植が開始される。このメイフラワー号に乗り込んだピューリタンは、イギリス国教会の迫害から、信仰の自由を求め、新天地に移住を求めた。彼らは、この移住を巡礼と呼び、自らをピルグリム・ファザーズ(巡礼始祖)と呼び、メイフラワーの船中で「メイフラワー契約」を締結している。この誓約に流れる思想は、一口で言えば、18世紀に提唱される社会契約説そのものであり、17世紀のカルバン派プロテスタンティズムの国家、経済、社会に対する見識が見て取れる。この見識が、コモンセンスとなり、約150年後のアメリカ独立宣言(AD1776)に行き着く。これが彼らの国家とピープル・人民のアイデンティティの根幹となる。これと対極をなすのが、日本神話に語り継がれ、そして現実に知覚できる君民共冶の天皇制である。この全く異なるアイデンティティの対立が、ペリー提督の来航以後始まる。

 

 さて論点を戻そう。処女王エリザベス1世に因んで名付けられたヴァージニアからイギリスの植民地経営は始まった。先行した16世紀の覇権国であるスペインが、鉱山開発と航路開拓のための先住民征服であったに対し、イギリスは17世紀当初から、アフリカから大量の黒人奴隷を導入したプランテーション(大農園経営)に特化し、農地拡大のための先住民征服であった。17世紀のオランダとの、18世紀のフランスとの植民地争奪戦争に勝利し、13州に拡大したイギリス植民地アメリカは、独立戦争時の18世紀後半までは大農業国家であり、独立戦争の立役者は全てプランテーションと奴隷の大所有者であった。しかしこの独立戦争の勝利は、イギリスの植民地政策から解放され、アメリカに飛躍的な発展の可能性をもたらした。北東部諸州を中心に産業・金融資本が集中・蓄積され、商工業が飛躍的に発展した。と同時に西部侵攻を開始する。この西部侵攻は国家アメリカの初の帝国主義戦争であり、スペイン植民地に対する侵攻であった。アメリカは19世紀前半に、北米の旧スペイン植民地をすべて奪い、19世紀末葉には最後のスペインの植民地のフィリッピンとカリブ海を奪い尽くす。16世紀の西洋最初の世界覇権国であるスペインの植民地を、最後の覇権国であるアメリカがすべて奪い尽くす、正に弱肉強食の帝国主義であり、スペインの没落200年に最後の止めを刺したのがアメリカである。19世紀に入るなりアメリカは、AD1803にフランス領ルイジアナ(ミシシッピー以西)をフランス革命政権から買収、AD1819にスペインからフロリダを買収、そしてAD1845,1846には其々、スペインの旧植民地であるテキサツとオレゴンを併合して領土は太平洋に到達している。AD1848には米墨戦争により スペインの旧植民地であるニューメキシコとカリフォルニアをメキシコから奪取し、現在のアメリカ本土48州の領土にほぼ拡大した。

 

 然しアメリカの西洋人入植から建国そして南北戦争の内戦までの250年間は、先住民の民族浄化の完遂であった。AD1830のインディアン移住法の制定により、17世紀初頭の入植以来の民族浄化の枠組みをほぼ完成し、AD1870のフロンティア消滅宣言まで、先住民を殺戮し尽くす。そしてこの250年間はまた、黒人と先住民の奴隷使役であり、そして最後に帝国主義国家への仲間入りであった。メイフラワー号の新教徒の理念は、宗教的情熱より近代主義そのものであり、そして自由な国家建設という建前の中、旧大陸の抑圧から逃れた近代人が、資本主義の欲望の赴くまま、フロンティアに没入して行った。この民族浄化が戦争という当時の主権国家の権利の枠組で為されたとしても、そこには人種差別と民族差別と文明差別が根底に存在している。アメリカ国家とピープル・人民を見るうえで、ここ本質から遁れられない。

 

 この領土を拡張した19世紀前半のアメリカはまた、北東諸州を中心に、商工業と金融業の勃興と共に、産業革命が進行し、鉄道、航行の拡大を支える製鉄、造船、機械などの重工業が飛躍的な発展を遂げるなか、既に北東部諸州は資本主義産業社会に突入していた。AD1850とは、アメリカにとって、メイフラワー号から230年、独立戦争から70年、そして米墨戦争によりカリフォルニアとニューメキシコを奪取し、現在の本土48州にまでほぼ達し、一つの国家目標を達成したステージだったことが分かる。このステージで、ペリー提督艦隊の日本来訪が計画され、世界注視の中で、AD1853に江戸に到着している。この計画は、AD1823のモンロー宣言の孤立主義とは裏腹の、最後に残された植民地である東アジアに対する帝国主義侵攻の宣言であり、最後の西洋覇権国の登場を宣言する行動であった。しかしアメリカの本命は、当時日本の10倍、人口3億人の広大な市場の中国であり、日本は本命のための橋頭堡としての攻略であった。しかし彼らの取った戦略と戦術は頗る効果的なものであった。戦略とは、自らの位置づけと中国と日本位置づけであり、戦術とは、彼らの振る舞い方であり、前触れもなく突如、最先端の戦艦の隊列で、江戸湾に現れ、首都・江戸を射程に置くのである。この恫喝外交は、250年にも及ぶフロンティアでの闘争の賜物であり、彼らの生存本能と捉え、日本人との違いを明確に意識し、日本人は精神構造の強化を図らなければならない。

 

 そして19世紀後半、南北戦争(AD186065)の内戦によってアジアへの侵攻計画は頓挫するが、国内矛盾を清算したアメリカは、ワシントン連邦政権を強化し、19世紀末に向かって目覚ましい発展を遂げる。豊富な石油資源と技術革新と相まって、石油や電力を中心とした第2次産業革命が欧州に先駆け進行し、この中一代で巨万の富を築いた多数の巨大財閥が出現していた。19世紀末には、工業生産高でイギリスを抜き去り、世界覇権国に向かって20世紀を視座においていた。領土拡張では、19世紀の後半には、AD1858にメキシコから北メキシコを買収、AD1868にロシアからアラスカを買収、そしてAD1898にはハワイ王国を併合し、同AD1898には米西戦争によりスペインからフィリピン、グアム、キューバ、プエルトリコを奪取し、太平洋上にも領土を拡大している。そして翌年AD1899には、その後の対中基本戦略となる中国への機会均等3原則を提唱し、虎視眈々と中国に狙いを定めている。西洋帝国主義の最後の残された利権である中国に対するアメリカの執着は、最後の覇権国として尋常なものではなかった。20世紀に入り行く手には、幕末の日本ではなく、日露戦争を控えた日本が存在していたのである。その後の中国利権に対する日本とアメリカの骨肉の争いが水面下にスタートする。しかし序盤は水面上の同盟からである。既にこの時ロシアは満州を支配下に置き、尚も朝鮮李王朝に利権を獲得し半島制圧を窺がうという、西洋覇権国の中でも抜きん出て一挙に駒を進めていた。日本は、先ず独立自衛のため、即ち対ロシアの緩衝地帯である朝鮮半島の支配権を巡り、当時中国に最大の利権を保持していたイギリスとの日英同盟と、そしてまだ中国に橋頭堡を築ききれないアメリカの金融財閥の支援を得て、AD1904にロシアに宣戦布告する。アメリカは、金融支援のみならず、まだ準覇権国であり政治大国では決して無いにも拘らず、日本の戦況有利の中で、ポーツマス講和会議を取り持ち、日本の勝利の裡に戦争の終結に成功している。アメリカの並々ならぬ中国利権に対する感度の高さが窺がえる。ロシアが撤退した後のパワーの空白を日本が占拠するのは自明である。アメリカは、日露戦争後、速やかに対日戦争計画であるオレンジ計画を策定し推進している。これは中国利権に対する仮想敵国としてイギリスとドイツにも策定しており、帝国主義国家の通常行為であるが、中国利権に対する決意と行動の強暴さが見て取れる。事実、日露戦争後、日本が親露政策をとり、イギリスとフランスとで中国利権の守りに入ると、アメリカとの極度の緊張関係が続いていた。日露戦争後、日本とアメリカは中国利権に対し最大のライバルとなり、この一点において、第1次と第2次大戦間20年の緊張が続いていく。詳細は後段に譲るが、一点だけ結論を添えたい。この後の20世紀前半、アメリカは第2次産業革命の更なる進展によって巨大な産業国家になり、第2次世界大戦前のGDPは世界の45%を占めるまで、そして人口は日本の倍の14600万人に達し、正しくガリバー国家となっていたことである。そしてその国家戦略によって、幕末ペリーが日本を弄んだように、AD1933からルーズベルトが日本を弄び、そして敗戦後マッカーサーが日本を弄び、そして戦後の歴代アメリカ政権が日本を弄んできたのである。

 

 

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